昭和52年02月11日 朝の御理解
御理解 第56節
「日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。」
先日梅林寺さんに、修行に見学に参りました時に、門の外の掲示板が出ておりました。それには寒い冬もようやく過ぎて、春ともなり、梅の花もなんか咲くという意味の事が書いてございました。あれ誰か控えとった人はなかったですか。控えとる人は無かったの。控えてなかったの。言葉はちょっと違いますけれども、そういう意味の事でした。それで私はこれは徹底した言葉ではないなと、それは寒い冬をまあようやく過ぎた。
それは春が来るのは、当然の事だけれども、御道の信心では、そこのところを、ようやくとか、やっととかという意味の事を書いてありました。もう冬寒い冬もやっと、もう本当に苦しかったけれども、ようやく春になった。そこで梅の花も咲いてきたとこういう意味でしたけれども、そのやっと過ぎたんではいけないですよね。ようやく春になったと言うとでもいけないですね。いわば、日にちさえたてば。世間が広うなってくると、ここまでは、そんな感じです。
言うならひとの噂も七十五日と言った様な事がありますです。難儀なことであった、苦しいことであった。人からある意味においては、後ろ指さされるようなことが、例えばありましても。日にちさえたっていけば、段々世間でも忘れられて、また自分も段々楽になってくる。あんまり苦にするなというのでしょうね。人の噂も七十五日。だからそこをまちっと耐えていけ、しのんでいけと、こういう訳でしょうけれども、じっと耐えていくとか、しのんでいくと言う事ではなくて。
それから先がひそかにして信心をせよと言う所です、違う所は。その五十七節に「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」という。そのひそかにして信心して行くうちに、どういう難儀なことがあっても、困ったことがあっても、また人から笑われる様な事があっても、ひそかにして神を杖につく稽古を、本気でさせて貰う。今までは、金を頼りにしておった。または人を頼りにしておった。信心をさせて頂いていくうちに、成程金やら人やらでは、頼りにならない事が分かってきた。
そこでもう神様より、すがる方はないとして、神様一心にお縋りをする事にならせて頂いた。神を杖につけば楽じゃと仰せられるが、確かに神様を杖につけば楽だと言う事が分かってきた。ひそかにして信心をして行くうちに、神様一心神様より他に頼る方無しというところが分かってくる。どんなに金があるからと言うて、金の山を積んだところで、出来ない問題がある。それこそ地獄の沙汰も金次第というけれども。極楽の沙汰は、金ではどうにも出来ないと言う事が分かるのです。
どんなに良か息子だ、どんなに良か娘がおると言うてもね。事故にでも合ったら、あっという間に亡くなってしまう。頼りが頼りにならないのだと。まあ仏教ではそれを無常観という風に申します。だからなるほど梅林寺さんで書いてあった、その掲示板に書いてあるとが、そう言う様な感じですね。寒いけれどもそこを辛抱していけ。それは必ず春が来ると。それもほんならやっと春に会うたと言うのですけれども、やっとではない神を杖につけば楽じゃと。
言うならおかげで信心が出来ますという、生き生きとした言うなら、前向きの姿勢でその寒の中も過ごすことが出来る。そして寒は寒いとばかり思うておったが、自分が一心を立てて、一生懸命に神様にお縋りをすれば、心にこういうゆとりが出来る。心が温かくなる。寒中にでも一生懸命、例えば働きますと、それこそ汗が出るようになると言う事が分かるのです。一枚ぐらい着物ばいうならば、剥いでも良い位になるのです。
金光様のご信心は寒いからと言うて、じっと寒さを耐えておると言う様な事では、あんまりにも術ない。そこに世の中をはかなんだり無常を感じて。そして春咲く花も待たずして自殺行為と言った様な事にすらなるのが、普通一般ですはね。金光様のご信者は、そうじゃないのです。その辛抱しておる間が尊いのである。有難いのである。ひそかにして信心をして行くと言う事は、今まで頼りにしておったものを、頼りにならない。はあ私が世界中で一番の不幸せ物であろうかと言う様な心の状態から。
こういう難儀な問題を通して、信心を頂かせて貰う様になったら。おかげで心が開けてくる。私は世間が広うなってくると仰せられてあるのは、いよいよ心が広うなって行くと言う事だと思うのですね。心が豊かになってゆく。そして頼りになるものは、神様以外にないと、そこから本当の意味での信心が生まれてくる。信心とは信ずる心です。もちろん神様を信ずる心です。天地の大恩が分かり、天地の御恩徳が分かる。
なるほど天地の間に起きてくることは、天地の心を心としての生き方がなされていく限り、もう天地のこと、天地の間に起きてくること、これ一切が整うていく成就していくと言う事だと言うのであります。金光様の信心はそこを確信して行くのです。もちろんそういう信心さして頂くところからね、春が巡ってまいります。そこに花も咲きます。それこそわが世の春を歌う時なのですけれども、ひそかにして信心をしておる時に、分からせていただくのはね。慢心は大怪我の元であるとか。
信心の油断をすなと言う様な教えを、頂きこんでまいりますから、それこそ花咲く春にあっても、そこに有頂天にもならなければ、調子に乗りすぎることも無い。ただあるものは、私のようなものに、かくまでのおかげを頂いてという、ただ有り難いというものだけしかない。しかもその上に勿体ないことだと言う事が、だんだん実感の上に出来てくる。だからおかげを落とすこともなからなければ、おかげがおかげを生んでいくおかげにこそなって行けれる。
いわゆる日勝り、月勝り、年勝りのおかげの土台が、そういうそれこそ日にちさえ経てば。また考え方も変わる、世間もまた変わってくる。まあ辛抱しなさい、辛抱しなさいと言うのでは無くて、その先にひそかにして信心をして行くうちに、そこが分かる。天地の道理も分かれば、御徳も分らせて貰い。そしていよいよ有難さが募っていくばかりというおかげになってくるのです。そこから日勝り、月勝りではない、それこそ代勝りにおかげの頂けれる、いわゆる御徳の世界が開けてくる。
それを子にも孫にも、いよいよ末広がりに頂いていけれる道を伝えて行く事が出来る。私は今日はこの五十六節を、そんなふうに頂かせて貰わなければならんと思います。昨日午後の奉仕をさせて頂き、もう昨日は月次祭でしたから、昼から大変お広前が賑わっていました。なかにある教会のご信者さんが、お伺いごとで参っておりました。もう次から次とそのお届けをされるのが、自分はそこへ座っておられて、もうみんなが有難い、有難いのその、もうそれこそ、まあ聞きよるならびっくりする。
ほんなこっじゃあるですかと言う様な、お礼のお届けが、ずっと続いておるのを、後ろからあっははそのもう自分の番が来ても、どうぞと言うてからそれを聞くとが楽しみのごたる顔してから、聞きござった。「私はもう、永年信心しとるばってん、こげんお礼ばぁっかりのとこちは、初めちじゃった」ち言うて、「どういうわけで、合楽の人達は違うですね」ち言われるわけです。
「どこが違いますかの」ち言うたら、「大体その衣装が違う、参ってきなさる人達みんな。もううち辺りは、エプロンがけで参ってきて、エプロン掛けで拝むという人達が多い。」ところが、合楽の人達は、みんな羽織掛けでまいってきとりなさるし、まあ信者の層がええとこう言う訳です。どうしたならば、合楽の人達だけが、あげんおかげ頂くでしょうかというわけです。そうですなどうっち事もないけれども、最近合楽では合楽理念と言う事が言われます。
合楽理念と言う事は、合楽教会のと言う事じゃありません。教祖金光大神様の信心の、ここはもう、金光教だけしか説き得ないところ。金光大神のおかげの世界の独壇場的なところ、そういうところを間違いなく、把握して分からせて貰うて、しかも合楽理念に基づくと、楽しゅう有難う、その道の絶対の道を歩いていけれる。そういう合楽理念を元にしての信心生活から、私はおかげが生まれてくるのじゃないでしょうかねと言うて、まあ話したことでした。
長年信心はしておるけれども、それこそ研くと言う事もなからなければ、改まると言う事もない。ただ悲しいときの神頼み的な事で、信心を永年続けておるというだけでは、やはりその時その時のおかげは受けてもです。おかげが今日も申しますように日勝り、月勝りしかも、代勝りという、おかげの世界、御徳の世界にも入っていけませんよ。一つ合楽理念を少し勉強して下さいと。もうそげん間違いのないなら、いっちょどうでんこうでん教えてください。
だから毎日、毎日、言うなら、合楽理念が説かれておるのですから、毎日、毎日、お話聞きなさらにゃでけんばいち言うてから、もう話したことでした。確かに合楽理念に基づきますと、例えば寒いときでも、汗が出るような術を教えられる。苦しいときでもおかげで信心が出来ますと、御礼の言えれる信心が説かれる。何故お礼を言わなければならないかと言う事が教えられる。ただじっと辛抱して行きよるうちに、必ず春が来るがのと言うのじゃない。
そら春が来たらもう、途端に花爛漫の中に浮いた浮いたになって、またおかげを落とす元を作っていくというのが、普通ですよね。合楽の場合は、あの咲いた頃からが、いよいよ本核的な、本当な信心が有難いいわゆる、勿体ないが頂けてくる。そして私は申しました。「どうでもね、信心させて頂くならね、イカがするめにならにゃいけないよ」ち言うて。「イカがするめちゃ、どういう事ですか」ち言われた。「イカがするめになるという事は、イカを海から捕ってくる。
そしてそれを干しとくと、同じものだけれども、するめになって、しかも何時までおいても悪くならない。」同じものだけれども。「イカはイカなり食べるけん、イカなりで終わってしまうのだから。」「ほほう、そげなふうに言うなら、イカもなかなか面白かですな」ち言うちから言うわけです。まあ私がこじつけて話したという風に聞こえたわけですね。私がイカと言う事は、いかんち言う事だと私が言う。
こげなこっじゃおかげは頂かれん。こげなこっじゃいかん事はわかっとるけれども、わかっとてもイカなりに食べてしもうて、いうならば、おかげを頂いてもするめにゃならん。するめというのは。味わえば味わうほど、噛めば噛むほど、味わいのあるのも。するめというのは、何時までおいても、悪くならないもの。そこんところが大事じゃないでしょうか。そして次に頂きます、私はご心眼いに頂きますのが、私の孫の孫の名前を書いてこう、お初穂のお供えをしておるところを頂いたんです。
だから私はその方に申しました。孫といや、それこそ、目の中に入れても痛くないほどに可愛いものだ。その可愛いものをお供えすると言う事なんだ。本当の改まりと言う事は、そう言う事なんです。本当に適当になら良いけれども、好きすぎると言う事は、もうお酒が、もう酒屋の前は通り抜けられんというごと好きな人がある。もうそれこそもう、甘いものには目がないという人がある。
もうそれこそ通り抜けられんから、前にはいっちょん進まん。目が無いから一切がその事だけにはもう、目の前が真っ暗になってしまう。そういう例えば目が無いとか、通り抜けられないと言う様な所を、通り抜けると言う事。そこを通り抜けさせて頂く所から、目が開いてくると言う事。人間は自分の好きなものの前には、非常に汚くなるものです。もう酒の好きな人が、その匂いがプンプンしてくるともう、喉がぐうぐう言うごつなる。そして一番口ぱっともう、飛びつくようにしてその酒に飛びつく。
甘いもんでもそうです。甘いものを本当に好きな人は、もう本当に甘いものの前にだけは汚いですね。ですから飲んじゃならんとか、食べてはならんと言う事では、決してない。いわゆるお供えをするのですから、それをお供えをするのですから、またお許しを頂いたら、お下がりを頂く事が出来るのですから。それをお供えもせんなりに頂くところに汚さが生まれてくるのです。それが見苦しいのです。神様の目からご覧になると、そこのところが神の機感に叶わんのだというわけです。
だからこのくらいな修行せにゃ、皆さんいかんですばい。自分でこげなこんな心があっちゃおかげ頂かんという事が分かったなら、それこそイカをするめに変えて行こうという精進なんです。はじめは苦しいけれども段々、それが有難い事になってくる、楽しい事になってくる。いかんと言うても、一生いかんと言うのじゃない。お供えをするのですからまたお許しを頂いて、お下がりを頂くという手があるでしょうが。それをお供えもせんなりに、それを頂くからおかげにならんのです。
もう本当の人間のこの改まりというかね。と言うのはそう言う所が取り除かれていくから、信心させて頂いたら、二人見るごと変わってくると言うのです。猫でも犬でもね可愛らしい、芸の一つもするようになりますと、「はあもう、家の猫はああぁた、襖でんなんでん自分で開けますよ。」「そしてから家の猫はもう、生くさけの番までします。」魚の番までする、というくらいに、仕込み方一つでは出来るのです。
それでもうなら猫なら猫に、生くさけは全然与えんかというと、ちゃんと「お前はい許す。」と言うたらそれを頂く事が出来るでしょうが。問題はその辛抱なんです。だからもう、猫が猫ではなくて、猫が、人間並みに扱われるようにもなってくるのです。はあちゃんちゃんこ着せたり、座布団の上に座らせたりね。猫がいうならば人間並みです。だから信心もです、もういよいよ辛いとか、苦しい今が極寒の真ん中かという、修行の真ん中であろうかと言う時にです。
でなからなければ、出来る修行じゃないのです。だからどういう修行でもします。どうぞ助けて下さいと言う時でなからなければ、中々出来んのじゃ。だからその極寒の時に、その修行が出来るのですから、とても普通では出来ない所を、おかげで信心が出来ますと言う事になるでしょうが。そういう信心が出来るときにです。猫が猫並みでなくて、人間並みに取り扱われるように、人間が神様並みに取り扱われるというほどしのお徳を受けるというのは、そう言う所を辛抱しぬいた人達ばっかりです。
難儀のとき苦しいとき、ただ時節を待っときゃ春が来るといったような、べんべんだらりとしたものでは無くて、その待っておるときに、もう普通では出来ない修行が出来るのです。猫やら犬にダニがついたら、猫自体で犬自体ではそのダニをとることは出来ません。だからもうだんごろりんして苦しんでおる。それを人間が見る、取ってやることが出来る。だから楽になる。私共でもそうです。自分の癌なら癌を取り除くと言う事には、大変難しいことですけれども。
その一生懸命の修行を神様がご覧になったら、神様が人間が犬猫のダニを取ってやるように、私共の心の中からもう、これはどうにも出来んと思うておったものを、取り除いてくださる働きが生まれてくるです。まあどうしてこんな楽なことを、早う気付かじゃったじゃろかと言う事になるです、自分の癌を取り除くと。癌のために苦しんでるんです、お互いが。いうなら我のために苦しんでるんです。それが取れないと思うておったが、そういう極寒に合う。
それこそ日にちさえ経てば、世間が広うなってくると言った様な難儀に直面したときにです。なるほど心が広うなる、心が強うなる。神様を信ずる力は、いよいよあれも頼りにはならん、これも頼りにはならん。頼りになるのは神様だけ。神を杖につけば楽じゃというのは、その間に癌が取り除かれる、いうならばダニのような、食いついておるものが、もう身の中に食い込んでおるようなものが。神様の手によって、それが取り除かれるところのおかげを頂くから、神を杖につけば楽じゃと教えられるのです。
だから信心はね、だからやっぱり一途になる、昨日から申しておりますように。神様一途。最近合楽では表行と言う事がありません。いやありませんじゃない、そういう表行言うなら形の上の。水をかぶったり断食をしたりと言った様な行は、もう金光教の中にはないんだ。そういうものをしてはいけないんだとして、心行一本に絞らせてもらう。いつも自分の心のなかに、神様を頂いておく心行さして貰う。そこから一切の事が変わってくる。心行に徹底すると言う事。
そこに神を杖につけば楽じゃと言う様な、楽なおかげが頂けれるのです。ひそかにして、信心ばしなければならない。人に顔を合わせるのも恥ずかしかと思うような時にです。いよいよ、神様を心に向けさせて貰うて、そういう時に本気での言うなら、信心をさせて頂いて。ああいう難儀な中を通らせて頂いたおかげで、こんな有難い信心が分からせて貰うた。ただその場その場のおかげではなくて、しかも日勝り、月勝りのおかげだけではなくて、代勝りのおかげが頂けれるような元が、そこに出来るのです。
今日は私自身の事を聞いていただいたような気が致します。私のほうは大変めぐりが深かった。もう本当に難儀こんぱくで、もう信心どんがなかなら、一家心中でもしかねないような中を通らせて頂いたけれども、そのいよいよ難儀こんぱくのときにです。いよいよ本当の信心が分からせて頂いた。おかげで私一家が助かっただけではない。このように合楽で沢山の人が助かるほどしのおかげに繋がってきた。いうならその極寒をただ通り抜けただけではなくて。
そこを信心で頂きぬかせて頂いたからだと、私は信じております。ここにご縁を頂く方達が、昨日私がお話しましたように、合楽の方達が、おかげを頂いておるというのは、合楽理念を基にした生活が出来ておるからでしょうねと申しましたように、どうでも合楽理念を体得させて貰うて、楽しゅう有難うしかも絶対な道をです、歩かして頂く一つの姿勢を作らなければいけないと言う事でございます。
どうぞ。